林泉寺山門
現在の山門は、門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所住地)の門を明治35年に移転したものです。
家老竹俣当綱当時(1770年)、藩主上杉鷹山公がくぐられた門です。
枝垂れ桜(しだれ桜)
米沢藩中興の祖と仰がれる十代鷹山公御手植えの桜といわれています。(樹令約200年)
北越戦争とは
慶応3年10月、徳川十五代将軍慶喜は時勢の波に抗し切れず大政奉還の意を決しました。
しかし、薩長を主軸とする新興少壮政客の所謂官軍は、単に「政権奉還」のみで満足せず財力の根源である「藩籍奉還」をも迫ります。
ついに慶応4年(明治元年)1月2目、3日鳥羽・伏見の戦いを惹起し、徳川慶喜は錦旗に刃向ったということで「賊徒」の汚名を着るに至りました。
幸い西軍参謀西郷隆盛と幕軍勝海舟との会見で、江戸は無血開城となります。
しかし、鳥羽伏見の主力だった会津は賊徒の主謀者として槍玉にあがり、「奥羽鎮撫総督府」を編成した官軍は仙台、米沢、山形、秋田などの各藩に命じて会津を攻撃しようとしました。
これに対して、米沢と仙台が中心とたって何とか平和裡に事を解決しようとはかりましたが、あくまで「会津を壊滅せよ」とする薩長の強硬論にあって空しくその意図は崩れ去りました。
ここに「朝廷に二心なき」奥羽三十全藩は結束をかため「奥羽連盟」を結び、甘んじて「賊名」を受け、西南軍と一大決戦を交えるのを止むなきに至りました。
かくして王政復古の余燼は、所謂戊辰戦役となって各地に戦乱を招き、当米沢藩も東北諸藩と共に薩長勢を主とする官軍と越後口・平潟口・最上・秋田・会津・庄内などに砲火を交えましたが、就中越後表においての戦は最も激戦を極めました。