直江兼続

初め樋口与六。永禄3年、越後魚沼郡上田庄坂戸城に生れました。
父は同城主長尾政景の長臣樋口惣右工門兼豊で、母は山東郡与板の城主で直江大和守親綱の娘です。天正9年(1581年)に直江家を継いで山城守兼続と称しました。

兼続は幼少より才気群を技き、上杉謙信・景勝の信任が厚く、数十年の間藩政を一身に続括しました。
慶長3年に主景勝公が会津120万石を領した時、兼続は米沢6万石を領し、公界諸侯としての待遇を受けました。

慶長5年、世に天下分け目といわれる関ケ原の戦いで西軍が敗れ、東軍 徳川家康の天下となります。これにより、同6年上杉家は120万石から米沢30万石に移封となりました。

兼続は風采堂々、躯幹長大、弁舌爽やか、かつ博学多識で、殊に文を好んで詩歌をよく詠み、天文地理・軍学・経済学等、皆達しないものはなく、米沢における学問は兼続に発したといわれる程です。しかも、その居常は極めて筒親で、身を保つことも謹厳でした。
また、その才略は実に雄大で、米沢城市の建設、荒蕪地の開拓、さらには水利の疏通、産業の開発、学問の興隆等 まさに直江は米沢開拓の大恩人です。

兼続は風采堂々、躯幹長大、弁舌爽やか、かつ博学多識で、殊に文を好んで詩歌をよく詠み、天文地理・軍学・経済学等、皆達しないものはなく、米沢における学問は兼続に発したといわれる程です。しかも、その居常は極めて筒親で、身を保つことも謹厳でした。
元和5年12月19日、江戸鱗屋敷において60才にて逝去しました。
法名 達三全智居士

時の将軍秀忠より香奠として銀七十枚を賜わりました。
享保4年、百回忌にあたり、英豼院殿(えいひいんでん)と追溢されました。

 

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