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北越戦争(1868年)に殉じた米沢藩総督であった色部長門をはじめ、280余名の遺髪を埋めた合同墓碑です。 北越戦争とは慶応3年10月、徳川十五代将軍慶喜は時勢の波に抗し切れず大政奉還の意を決しました。 しかし、薩長を主軸とする新興少壮政客の所謂官軍は、単に「政権奉還」のみで満足せず財力の根源である「藩籍奉還」をも迫ります。 ついに慶応4年(明治元年)1月2目、3日鳥羽・伏見の戦いを惹起し、徳川慶喜は錦旗に刃向ったということで「賊徒」の汚名を着るに至りました。 幸い西軍参謀西郷隆盛と幕軍勝海舟との会見で、江戸は無血開城となります。
これに対して、米沢と仙台が中心とたって何とか平和裡に事を解決しようとはかりましたが、あくまで「会津を壊滅せよ」とする薩長の強硬論にあって空しくその意図は崩れ去りました。 ここに「朝廷に二心なき」奥羽三十全藩は結束をかため「奥羽連盟」を結び、甘んじて「賊名」を受け、西南軍と一大決戦を交えるのを止むなきに至りました。
坂 蘭滉 (1818〜1889)明治維新当時の漢学者で、米沢中学校時代(現在の米沢興譲館高等学校)の教師です。 名は敬次、殊に長篇を能くし月山の詩の如き傑作があります。その著に蘭渓詩集があります。 法名 幽哉院俊翁蘭渓居士 滝川喜六明治4年1月、興譲館内に洋学舎を創設した折、米沢藩の招きにより木頓道之助・宮内赫介と共に来藩した静岡藩士の英学教師です。 1年間の手当が金10円と高給でしたが、不幸にも来藩間もない明治4年4月4目に逝去しました。 法名 積善院賢徳秀才居士
小田切寒松軒 (1690〜1774)元禄3年5月13日に生まれました。名は継親、通称弥惣。 淵竜と号し享保19年に隠居し、後に寒松軒と号しました。 初めは五代綱憲公の近習となりましたが、故あって改易を命じられ塾居14年に及びました。 9才の時、目賀多守息(南目賀多派の祖−雲川と号す)に画を学び、長じて九代重定公の寵が深かったと言われています。 その画くところは細密磁潤、鳥獣花木に妙を極め、また槍術に達し、好んで山水樹芸草木等を築作しました。造園の名手としての名が高く、餐霞館(十代鷹山公の隠居所)の築庭、その他を作ったといわれています。 門人に香坂松洲(人物・仏画を得意としました)左近司惟春等がいます。 松木魯堂 (1785〜1838)通称彦右衛門、初め徳之助といい、魯堂と号しました。 その人となりは温順雅量、幼くして興譲館に学び敏達精研群を技きました。 文化14年、友子堂助続となり、後神保蘭室の門に入って江戸在府中請儒学者と交って漢学を好みました。また、藩学に対し私学の勃興をはかり、赤湯島帽千山に臨雲堂を開き子弟を養育しました。 法名 松峯院殿雲外文秀居士 吉川惣兵工家直江兼続は慶長9年9月近江国住友村より招き、高湯にて鉄砲火薬軍器を作らせました。 非常に良い鉄砲を作るので鉄砲塁町に屋敷を与え、録100石を給しました。 |