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そのほか

林泉寺山門

現在の山門は、門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所住地)の門を明治35年に移転したものです。

家老竹俣当綱当時(1770年)、藩主上杉鷹山公がくぐられた門です。

林泉寺山門

枝垂れ桜

米沢藩中興の祖と仰がれる十代鷹山公御手植えの桜といわれています。(樹令約200年)

春日明神

上杉家の氏神にして当山鎮守の社です。

歴代藩主の尊崇厚く、ことに鷹山公が上杉家御相続された折(17才)立志の誓詞を捧げられた由緒深いものです。

上杉神社に所蔵されているその誓詞には血判がみられますが、鷹山公の至誠を察するに余りあるものがあります。

春日明神

林泉寺庭園

米沢三名園の一つ。

西方の斜平山を借景とした雄大なつくりの禅庭です。

林泉寺庭園

北越戦争殉難者合同墓碑

北越戦争(1868年)に殉じた米沢藩総督であった色部長門をはじめ、280余名の遺髪を埋めた合同墓碑です。


北越戦争とは

慶応3年10月、徳川十五代将軍慶喜は時勢の波に抗し切れず大政奉還の意を決しました。

しかし、薩長を主軸とする新興少壮政客の所謂官軍は、単に「政権奉還」のみで満足せず財力の根源である「藩籍奉還」をも迫ります。

ついに慶応4年(明治元年)1月2目、3日鳥羽・伏見の戦いを惹起し、徳川慶喜は錦旗に刃向ったということで「賊徒」の汚名を着るに至りました。

幸い西軍参謀西郷隆盛と幕軍勝海舟との会見で、江戸は無血開城となります。


しかし、 鳥羽伏見の主力だった会津は賊徒の主謀者として槍玉にあがり、「奥羽鎮撫総督府」を編成した官軍は仙台、米沢、山形、秋田などの各藩に命じて会津を攻撃しようとしました。

これに対して、米沢と仙台が中心とたって何とか平和裡に事を解決しようとはかりましたが、あくまで「会津を壊滅せよ」とする薩長の強硬論にあって空しくその意図は崩れ去りました。

ここに「朝廷に二心なき」奥羽三十全藩は結束をかため「奥羽連盟」を結び、甘んじて「賊名」を受け、西南軍と一大決戦を交えるのを止むなきに至りました。


かくして王政復古の余燼は、所謂戊辰戦役となって各地に戦乱を招き、当米沢藩も東北諸藩と共に薩長勢を主とする官軍と越後口・平潟口・最上・秋田・会津・庄内などに砲火を交えましたが、就中越後表においての戦は最も激戦を極めました。

人々

 

坂 蘭滉 (1818〜1889)

明治維新当時の漢学者で、米沢中学校時代(現在の米沢興譲館高等学校)の教師です。

名は敬次、殊に長篇を能くし月山の詩の如き傑作があります。その著に蘭渓詩集があります。

法名 幽哉院俊翁蘭渓居士

 

滝川喜六

明治4年1月、興譲館内に洋学舎を創設した折、米沢藩の招きにより木頓道之助・宮内赫介と共に来藩した静岡藩士の英学教師です。

1年間の手当が金10円と高給でしたが、不幸にも来藩間もない明治4年4月4目に逝去しました。

法名 積善院賢徳秀才居士


ちなみに、同年10月英人ダラスが招きに応じ来県(同年7月廃藩置県)し、米沢における洋学の隆盛を見るに至りました。

 

小田切寒松軒 (1690〜1774)

元禄3年5月13日に生まれました。名は継親、通称弥惣。

淵竜と号し享保19年に隠居し、後に寒松軒と号しました。

初めは五代綱憲公の近習となりましたが、故あって改易を命じられ塾居14年に及びました。

9才の時、目賀多守息(南目賀多派の祖−雲川と号す)に画を学び、長じて九代重定公の寵が深かったと言われています。

その画くところは細密磁潤、鳥獣花木に妙を極め、また槍術に達し、好んで山水樹芸草木等を築作しました。造園の名手としての名が高く、餐霞館(十代鷹山公の隠居所)の築庭、その他を作ったといわれています。

安永3年1月14目、85才にて逝去しました。

門人に香坂松洲(人物・仏画を得意としました)左近司惟春等がいます。

 

松木魯堂 (1785〜1838)

通称彦右衛門、初め徳之助といい、魯堂と号しました。

その人となりは温順雅量、幼くして興譲館に学び敏達精研群を技きました。

文化14年、友子堂助続となり、後神保蘭室の門に入って江戸在府中請儒学者と交って漢学を好みました。また、藩学に対し私学の勃興をはかり、赤湯島帽千山に臨雲堂を開き子弟を養育しました。

天保9年10月24日、54才にて逝去しました。

法名 松峯院殿雲外文秀居士

 

吉川惣兵工家

直江兼続は慶長9年9月近江国住友村より招き、高湯にて鉄砲火薬軍器を作らせました。

非常に良い鉄砲を作るので鉄砲塁町に屋敷を与え、録100石を給しました。