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上杉家ゆかりの方々

武田信清

初名三郎、武田信玄の六男。

信玄はその臨終に際して、嗣子勝頼に対し、 『・・・兵を構えて己が国を亡ぼすこと勿れ、我れの死後天下に頼るべき者は独り謙信あるばかり宜しく援を請い求め国をば彼に托せよ。』 と残しました。


天正10年3月武田勝頼父子は天目山の戦に破れて自害、勝頼兄弟のうち、武田太郎義信(長男)、同次郎隆宝(二男)、仁科五郎信盛(四男)、暮山十郎言責(五男)も戦死あるいは自害します。これにより、 信清一人が残り武田の正流となりました。


甲州没国の節信清は、紀州高野山無量光院に隠まわれ、同年越後の景勝公に嫁いでいた姉菊姫を頼って来ました。

上杉氏では高家衆の筆頭として優遇(諸役御免)し、三千三百石を陽わります。

寛永19年3月21日、83才にて逝去しました。

法名 虎山玄龍居士


信清以来、子孫連綿として米沢に居住しました。

武田信清

武田信清の墓
(県指定史蹟)

水原常陸守親憲

天文15年越中に生れ、初め大関弥七と称しました。

天性沈勇にして才略があり、容貌魁偉にして身の丈また鴨居に顔の当る程でした。

永禄4年秋16才の時初めて謙信公に仕え、川中島を始め各地の戦場を馳駆します。 天正14年叛臣二瓶某を討った後、水原城に居住しました。

慶長3年、景勝公会津移封に際して親憲は5500石を受け、別に同心分として2800石を領して猪苗代の城代となりました。

最上陣及び大阪役に従軍し、その軍攻によって時の将軍秀忠より感状及び褒美を賜りました。

元和2年5月22日、71才にて逝去しました。

法名 大雄院殿恩室謙重居士


往時親憲の墓石は、オコリに効ありと人々が削り去ったといわれています。

吉江常陸介宗信

吉江家は桓武天皇より出て平姓・村岡姓・三浦姓・大川戸姓を経て、21代に至って吉江姓を名乗りました。

天正10年6月3日、23代吉江宗信が越中魚津城を守り織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族5名壮烈な戦死を遂げました。

法名 永輝院殿顕宗義忠居士


上杉家譜代の重臣として37代連綿として今に至ります。

新貝弥七

喜兵衛安親の二男で、始め大蔵といいました。

無給にて元禄3年1月31日、吉良左兵衛君(綱憲公の二男で吉良家を嗣いだ)小姓を命ぜられて、江戸へ勤めました。


元禄15年12月14日、吉良一件(赤穂浪士打入)の時、堀部弥兵衛その他と渡り合い玄関先において討死しました。

腹中に槍の穂先が残っていたと記録にあります。

法名 刀山宗剣居士

鉄孫左衛門泰忠

黒金家の大先祖にして、謙信公譜代の臣です。

本姓島倉、通称孫左工門、のちに鉄上野景信の遺跡を継ぎ、鉄と称しました。


慶長3年、禄6200石を領し、同4年3月神刺原築城の折、泰忠総奉行を命ぜられました。

同9年10月大阪役に出陣し、11月26日田島野表の合戦において、大和川堤の敵を撃破して功がありました。役後、将軍秀志より感状及時服を拝領しました。


寛永12年1月21日、72才にて逝去しました。

甘糟備後守景継

清和源氏甘糟野次広忠より15代の末孫です。

景継は、越後上田長尾譜代の臣、登坂加賀守清高の嫡男で、初め藤右衛門清長といいましたが、上杉謙信公の命によって甘糟氏を相続しました。

幼少より剛勇無双にして、鎗と長刀の名手でした。はじめ越後五泉の城主、文禄2年には庄内酒田の城主となり、11000石を領し、慶長3年には奥州刈田郡白石の城主に転じました。(2万石)

同5年、関ケ原の時、伊達政宗が景継の不在に乗じ白石城を襲い取ったので、景継憤まんやるかたなく安田能元、島津下々斉等と共に硬論を持ち、徳川との和戦を好みませんでした。

気骨稜々たる侍大将でしたが、慶長16年5月12日、62才にて逝去しました。

法名 大応寺殿本休徹無大居士

三股隼人吉親

九兵衛吉次の二男で、三代上杉定勝公の小姓頭でした。

正保2年(1645年)9月10日領主定勝公が42才を以て逝去された折、岩井久親、香坂弥五右衛門と共に追腹殉死しました。

法名 正忠院殿傑山勝英居士