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■ トップページ > 林泉寺を訪れる > 上杉家ゆかりの方々
天文15年越中に生れ、初め大関弥七と称しました。 天性沈勇にして才略があり、容貌魁偉にして身の丈また鴨居に顔の当る程でした。 慶長3年、景勝公会津移封に際して親憲は5500石を受け、別に同心分として2800石を領して猪苗代の城代となりました。 元和2年5月22日、71才にて逝去しました。 法名 大雄院殿恩室謙重居士
吉江家は桓武天皇より出て平姓・村岡姓・三浦姓・大川戸姓を経て、21代に至って吉江姓を名乗りました。 天正10年6月3日、23代吉江宗信が越中魚津城を守り織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族5名壮烈な戦死を遂げました。 法名 永輝院殿顕宗義忠居士
喜兵衛安親の二男で、始め大蔵といいました。 無給にて元禄3年1月31日、吉良左兵衛君(綱憲公の二男で吉良家を嗣いだ)小姓を命ぜられて、江戸へ勤めました。
腹中に槍の穂先が残っていたと記録にあります。 法名 刀山宗剣居士 黒金家の大先祖にして、謙信公譜代の臣です。 本姓島倉、通称孫左工門、のちに鉄上野景信の遺跡を継ぎ、鉄と称しました。
同9年10月大阪役に出陣し、11月26日田島野表の合戦において、大和川堤の敵を撃破して功がありました。役後、将軍秀志より感状及時服を拝領しました。
清和源氏甘糟野次広忠より15代の末孫です。 景継は、越後上田長尾譜代の臣、登坂加賀守清高の嫡男で、初め藤右衛門清長といいましたが、上杉謙信公の命によって甘糟氏を相続しました。 同5年、関ケ原の時、伊達政宗が景継の不在に乗じ白石城を襲い取ったので、景継憤まんやるかたなく安田能元、島津下々斉等と共に硬論を持ち、徳川との和戦を好みませんでした。 気骨稜々たる侍大将でしたが、慶長16年5月12日、62才にて逝去しました。 法名 大応寺殿本休徹無大居士 九兵衛吉次の二男で、三代上杉定勝公の小姓頭でした。 正保2年(1645年)9月10日領主定勝公が42才を以て逝去された折、岩井久親、香坂弥五右衛門と共に追腹殉死しました。 法名 正忠院殿傑山勝英居士 |